KK020
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KK020
title:
Semi-Impressionism
artist:
Tetuzi Akiyama + Toshimaru Nakamura
time:
59' 02"
format:
CD

tracklist

1.
(track1)
mp3
2.
(track2)
3.
(track3)
mp3

Text by Toshimaru Nakamura

秋山徹次と私が、セルビアのノヴィ・サドという町で演奏した時のこと。終演後に、 地元のジャーナリストと名乗る男性が話しかけてきた。かなり酒が入っているようで、 相手をするのが面倒だったから適当に切り上げようとすると、『もうひとこと言わせてくれ』 と引き止められ、初め絞り出すように、そしていよいよ勢いよく飛び出してきた言葉が 『ゼン・ノイズ』である。禅ノイズということであろう。それが何かを意味するかはわからなかった。

数日後、秋山と私はスウェーデンの地にあった。ある朝、ホテルのロビーで、どこかの公演の 評を新聞で見つけた。我々のデュオを指して、zen impressionism とある。一般的な日本人の 標準的な禅に関する知識の量と比しても(そんなものを量れればということだが) 私のそれは乏しいから、そんな立派な言葉を冠していただくことに後ろめたさを感じた。且つまた、 『禅』という言葉は便利で安易に流布しているものだなあと思った。

実のことを言うと、秋山も私ももうしばらくの間海外での公演をしてきているから、 こういう言葉を使われることは既に何度も経験済みである。若い頃には、それが我々にいらだちの ような反応をもたらしたものであったが、現在となっては「相変わらずなのねえ」「久しぶりに 食らったな」ぐらいのもので、痛くも痒くもないのである。ところがどうしたことか今回に限って、 「いやしかし、歳をとったからと言ってこれを見過ごしてはいけない、ここはひとつ何か こちらからも一石投じねば」と、朝の珈琲を手に我々は盛り上がった。そこで我々が取った行動とは、 『禅印象派』というタイトルのCDのリリースを計画するという挑発的なものである。 なんとも勇ましいではないか。

ま、つまり音楽の内容の良し悪しを見る以前に、このCDは存在していたということであるが。

表題に使う『禅』の字は毛筆で表そうということで、書道家にお願いした。 立派な言葉なのであろうから、それにふさわしい風格のある書体で提示したかった。 かつ、毛筆で書かれていれば、日本人以外の方々にも、どこかで目にしたことがあるという程度の 印象を持ってもらえるのではないかとも考えた。出来上がってきた書を見ると、左半分が 『禅』の字とはちょっと違っていて、全体として『蝉』の字を構成していた。蝉は、夏にうるさい あの昆虫である。我々が「この字です」と渡したサンプルが間違っていたということだった。 書道家の方も、なぜ『蝉』の字を一文字頼まれたのか、首をひねっていたことであろう。

Episode by Toshimaru Nakamura

陽はたったいま昇ったばかり。また一日、夏の或る日が始まるのだ。建物や道路 などの 人工構造物が前日の熱を蓄えていて、すでに暑い。いや、それら建造物 は、前日には前々日の 熱を残していたであろうから、そのようにたどっていく と、竣工相成った時からの熱の総量が、 そばを通りかかる僕にまで祟っているよ うに思えてくる。僕は静岡市に来ていて散歩を していたのだが、そうこうするうち大きな城跡に作られた公園の前に立った。告知板には、 城は室町時代に築 かれ、時代が下って江戸時代の初期に、将軍職を退いて大御所となった徳川家康 が住むために改築されたものだとある。変遷の末に上屋は既に無いが、祟り は深く大きい。 祟りは熱でだけではなく蝉の声となって降り掛かってくる。それ は耳のなかが痒くなるほどの 音量で、うるさい。東京にもいるアブラゼ ミの通奏持続音より目立つのは、一定のリズムで鳴く クマゼミである。クマゼミ という呼び名は、その後、地元の人に訊いて教えてもらった。これが 『シェイシェ イシェイシェイ・・・』と延々と続くのだが、鳴きはじめの辺りが 『死ね死ね死 ね死ね』と聞こえる。まあ言われなくてもそのうち死ぬんだけども、 もうちょっ と待ってほしい。と、そのように申し立ててやろうとしたわけではなく、ただ、 あまり耳に馴染みの無い鳴き声だから、どんな格好をしているのかなと思って大 きなケヤキの木を 見上げた。ところが、どう目を凝らしても蝉を見つけられな い。時折、木から飛び立っていく様を 見ることは出来たのだけれども、木に留 まって呪文を唱えているお姿は拝見できない。 明るい空を見上げて、逆光の木の暗がりに目を凝らしていたから、たいそう疲れ てきた。 そうこうするうちに首も痛くなったので、諦めて探すのを止した。事を 中途で止したのだから、 釈然としない気持ちが残った。蝉はあれだけの音量で鳴 き声を発しておきながら、 まるで巧みに姿を隠すようにしている。見つかりたく ないのであれば、最初から音など 出さなければ良いものを、敢えて音を隠しよう の無いほどの音量で鳴らし散らしておきながら姿は 見せない。そこが理屈にか なっていない。聴かれたいけれども、見られたくない。 あ・・・・・・、何だ、 そういうことか。わかりました。

Tetuzi Akiyama + Toshimaru Nakamura interview

(interviewed by artist, event organizer and writer, Tetsuro Yasunaga @ Yasunaga Tetsuro Jimushitsu)

※このインタビューは答えの差異を楽しんでもらうためにも、 あえて2人にはそれぞれの答えをふせて答えてもらいました。

1. 音の話から入らず恐縮ですが、やはりこのタイトルをムシすることができま せん。どのような経緯で「蝉印象派」というタイトルに決められたのでしょう か。また、このタイトルと収録された演奏内容はどのような関係性を持っていま すか?

中村: タイトルは無視できませんか。良かった。無視してもらっては、僕としては面白くないんです。 実は、まず最初にタイトルありきな作品ですから。タイトルと収録された内容の間には、 直接の関係はないと思ってもらって構いません。結果としては関係があるかもしれませんが、 それは特に意図したものではありません。どうしてこのタイトルにしたのかを説明します。 どうやら欧米では、日本人が欧米人の期待するところの日本人らしい表現をすると、 「禅」という言葉を使って説明されることが多いと思います。表現だけではなく、 状況に対する反応や行動でも、同様に評される。でもね、僕自身は「禅」と言われても 何のことかあまり良くは分からないんですよ。そういう一言、というか一語、それどころか 日本語なら一文字で言われても、なんだか記号にだまされている感じがしますね。 まあそういうことはずっと前からあったんですけれども、昨年に秋山徹次とヨーロッパをツアー している時に、また何度か続けてその言葉を聞かされましてね。我々の新聞上のコンサート評に Zen-Impressionism とか書かれたりとかね。それでちょっとそういうのを揶揄したい気持ちに なってきたので、それを逆手に取ったタイトルのCDを出そうかと僕が言い出しました。 でも「禅」そのままじゃあ、そのままに受け取られそうだから、あ、ちょっと間違っちゃった ということで、「蝉」にしました。


秋山: 蝉だけにムシできないとは、出だしから仕掛けてきましたね。僭越ながら座布団 を1枚差し上げたく思います。 さて経緯自体は中村氏によるライナーにほぼ説明済みではありますが、その際ご 推察されますように、「蝉」を行書で書いて「禅」っぽく見せることで欧米人の 勘違いを煽り、売り上げを伸ばそうとの姑息な画策が見え隠れしているように思 われるかもしれませんが、そのとおりです。しかしそれが実際の売り上げに繋が るほどの効果を発するかどうか、人ごとのように暖かく見守っていきたいと思い ます。内容との関係ですが、これもライナーにあるように聴く人の想像力によります。 禅、禅と思えばそこに無常観が生じ、蝉、蝉と思って聴けばそこに蝉が飛び始め ます。世界の在り方は如何に生きるかによって七変化します。以上、だいぶ嘘が混ざっております。

2.英題では「蝉」を敢えて「Semi」とすることで、「半・印象派」と解釈され ることも想定しているのかと思いました。それについてはどのように考えていま すか?

中村: 「半印象派」、「準印象派」、「亜印象派」。どのようにでも、解釈されるなり誤解されるなり するのは、一向に構いません。Cicada-Impressionism としても、冗談として成り立ちませんから、 そこはそのまま日本語をローマ字表記しました。冗談と言っても、こうやって説明しなくては 5人に一人ぐらいにしか気づかない冗談だろうし、気づいたところで全然面白くない冗談だと 思いますが、僕自身が面白がるのだというその一点だけのために、そういう筋を通すために、 このタイトルにしました。出来れば秋山も、これをまあまあ面白いかなと思っていてくれると 嬉しいんですが。


秋山: 「semi-impressionism」という言葉が美術用語として元々あったということは、 日頃の勉強不足が祟り、後で調べてわかりました。 まあ、電車で言うところの「semi-express」が「準急」と和訳されていることを 踏まえれば、「準印象主義」というところでしょうか。 ちなみに私の生家から近い駅は昔から準急が止まる駅で、子供のころからその特 殊性になんとなく惹かれておりました。 それでタイトルに「準」あるいは「semi」と付く作品をいつかリリースしたいと 思っておりましたので、このたびそのたっての願いが叶い感無量です。 「蝉」が何故「semi」になったかとのことですが、違う言語であるのに言葉の響 きが似ていて、しかし当然意味が違うというからくりを利用して一泡吹かせよう としたのだろうと思われるかもしれませんが、そのとおりです。我々はわかり易 いのです。 ところで、「impressionism」の部分を直訳の「印象主義」ではなく「印象派」 としたのは、「主義」と主張するほど大風呂敷を広げる勇気は無いにも関わら ず、また誤訳から生じる可能的誤解による小さなセクト主義に陥る危険を避ける ためです(と書いていて自分でも何を言わんとしているのかよくわかりませ ん)。とは言え「準印象派」はやはり日本では一般的な言葉だとは思いません。 ということで、これを機に世間に啓蒙し、今年の地下世界流行語大賞を狙ってお ります。以上、だいぶ誇大妄想が入り交じっております。

3. 絵画における印象派を乱暴にまとめると「光の要素にフォーカスすることで 表現の領域を具象から抽象へと拡張したムーヴメント」と考えることができます が、お二人の表現は音楽というものの抽象化へと向かっているのでしょうか。別 の尋ね方をすると、お二人は「印象派」なのでしょうか?

中村: わかりません。確かに、具体的な像を提示したり、メッセージを推し起てているわけではないから、 具象的ではないですね。でも、特段に「印象派」に向かっているのかどうかは知りません。


秋山: 乱暴な質問へのお返しに我々の音楽を乱暴にまとめると、そう言ってもいいかも しれません、と言うのは冗談で、私個人の考えではどちらかと言えば逆で、自由 形態即興演奏に於ける抽象的表現方法から敢えて具象に向かうベクトルなのかも しれません。ただそこは一つ捻ってあります。というのも、絵画に於ける抽象表 現主義を代表するジャクソン・ポロック全盛期のドリッピング技法に影響を受け たキース・ロウを擁するAMM以降の即興演奏グループおよび、その演奏イディオ ムに於ける音の抽象化のが行き着いた果てに位置する現在の即興音楽シーンの状 況とは別の方法論が有り得ないかとの問いを発した結果、個人的な趣味の傾向と してはむしろ楽器本来の自然倍音を利用した、より具体的肉体性を帯びた音のほ うが演奏していて生々しさが身近に思えてきたからです。どちらかと言えばヘッ ドミュージック寄りの傾向を少しだけボディミュージック側にシフトする感覚で す。より具体的な概念で言えば「触ることの出来る音楽」とでも言い表されます でしょうか。ちなみにジャクソン・ポロックに関しては、いわゆる全盛期のもの も好きですが、その後は最晩年に行き着いた墨絵のようなもの、どんなに抽象に 向かっても顔を出して来る具象形態の扱い方のほうに興味が移っていきました。 抽象的なラインに依って創りだされる形は形そのものとして呈示し、その具体性 の延長としての抽象化への再帰に興味があります。ひと捻りというのはそういっ た経緯のことを言っています。

4. お二人の表現において、音そのものと抒情性/コンテクスト/メッセージ/ イメージといったものとはどのような距離感で関係を持つのが良いと思いますか? (この質問の意図は、アルバムカバーに書かれたとしまるさんのテキストが映像 を喚起させる内容で、それとCDの音とを短絡的に結びつけて情景化することも可 能だと思ったからです。あと、そういう受け取られ方を極端に嫌う人もいると 思ったからです)

中村: ああ、いやいや、あの文章は、単に蝉とつながっているだけで、たぶん音楽とは関係ないんじゃない かな。あるかもしれないけれど。どうかな・・・。あ、思い出した。このCDを作る少し前に、 メルボルンでのサウンド・インスタレーションの展覧会に依頼されて音楽作品を寄せたんです。 あの文章は、その時に言葉を添えてほしいと言われて書いたものでした。だから元々はこのCDの ために書いたものではなかったんです。かといって、その美術展に出した作品とも、直接の関係は ないと思いますけどもね。その作品を作った同時期に、別の場所でですが、ふと感じて考えたことを 書いた短い文章です。CDの制作時期ともそんなに隔たってはいません。ちょうどミックスなんかを やってた頃だったんじゃないかな。 質問に答えます。きっと僕にもそれら相互の関係に、これが好ましいと感じる距離があるのでしょう。 たぶん、あまり緊密ではないとか、寄り添わないとかね。それらにお互いに補強し合わせて、 表現に強固な一貫性を持たせるのは、僕はあまり好きじゃないかな。その辺のことは、僕には この辺りだろうという加減があるので、勘でやってそれで出来たものが良いのだと思ってます。 当てずっぽうですね。


秋山: それに正しく答えるために風水を勉強しようとしているところです。多分抒情性 は未の方角、コンテクストは丑の方向等、それぞれの概念にとって音の原点から のベストな関係が位置づけられることでしょう。とは言え、そんなことを言って いては何年かかるかわかりませんので、単に感想的に述べておきますと、音その ものと抒情性の関連は聴き手の個人史に大方依存するので我々にはその距離感は コントロールできません。ファドで泣ける人もいれば四畳半フォークで無いとだ めという人もいるでしょう。(ちなみに私は後者です。)もし私自身の抒情との 関連で言うならば、自分で演奏していて感極まって泣かないようにコントロール しています。もともと一介の人間のやることですから自ずと限界がありますが、 いろんなものを盛り込もうとして却って何も伝わらずに失敗するということもあ るでしょう。それに比べたら短絡的行動に出ていただいてもらう方が、まだあり がたいような気がします。残りの三者は互いに関連していますが、コンテクスト というのは、それによってイメージを通してメッセージを具現化するのがその仕 事なので実は一番重要かもしれません。でも聴き手が同じコンテクストにいなけ れば意味がないじゃないかと思われるでしょうが、音楽の面白い作用として、そ のような境遇の者同士でも擬似的に時空を共有できるという特徴があります。時 空の共有が必ずしもコンテクストの共有を誘発するとは限りませんが、お友達く らいにはなれるのではないでしょうか。音楽はその本質からして出会い系なので す。我々は言わば合コンの幹事みたいなものです。

5. お二人は出会ってから今まで、どのような関係性をお互いに築いてきたと思 いますか?それは、このCDにどのような影響をもたらしたと思いますか?

中村: このデュオはデュオとして始まったわけではなく、しかも長い間デュオになりませんでした。 当初は杉本拓とともに3人で、その後は秋山と二人で、毎月いろいろなゲストを交えて即興演奏を するという活動を90年代終わりから2000年過ぎまでの4年間ほどやっていました。その後は 不定期になりましたが、二人にゲストを加えて3〜4人で即興演奏する機会は、現在に至るまで 持ち続けています。しかしながら、このCDに収録されることになった昨年のツアーまで、二人だけで 演奏することは、ほんの少しの、たしかただ一度の例外を除いてはありませんでした。 我々は10年近くの間、演奏する時にはいつでも、即興のトリオやカルテットを構成するための 受け皿として機能してきたわけです。これは、ここでの我々のデュオとしての演奏にも影響を 与えていると思います。ただそれとは逆に、元々こういう演奏をするそういう人たち同士だったから こそ、なかなか二人きりでは演奏するに至らなかったということもありましょう。 その辺のところは、どちらが結果で、どちらが原因であると特定することは出来ません。


秋山: そうですね、お互いに忠告すべきことは忠告し(「ライヴ前にもう顔を赤くして いるなんて、少し飲み過ぎなんじゃないの。」)、進言すべきことは進言し (「あそこのそば屋は旨い、特に鴨せいろ。」)、お互いに意見が違ったり、干 渉すべきで無い時は邪魔しない(「客席の前から4列目の右から5番目の娘は可 愛いとあなたはおっしゃるが、僕は2列目の左から3番目がいい。」)といった ところでしょうか。まあ長年に渡って自然に築き上げた付かず離れずの関係のバ ランスは悪くはないと思います。 そんなことがどうこのCDの音楽に折り込まれているかというと、お互いの演奏に 対して最低限の依存と最大限のレスペクトを持ち合うということでしょうか。実 際そんな感じに聴こえているのではないかと思います。あるいは実のところもっ とドライに、互いに無関心というくらいかもしれません。いずれにせよ演奏して いて別にいまさら嫌ではありません。

6. お二人とも過去に様々な音楽家と共演を重ねてきましたが、二人でないとこ の作品ができなかったと思う要素があれば教えてください。

中村: これは先ほどの質問への答と重複するところもあると思いますが、それぞれが別々の機会に 他の音楽家と共演した経験、二人でともに他の人を迎えて共演した経験、それらはここで デュオとしての二人だけの演奏に表れているでしょう。二人の距離とか、音でのつきあい方とかね。 その辺りが、デュオで始まってデュオで続けているデュオとは違うように思います。 でもそれはさっきも答えたように、元来そういう人たちであるからこそそういう経験をして、 それがまた音にも反映されるということかもしれません。


秋山: 5の答えともダブるところもありますが、ともかく共演歴が長いということは、 それ自体ひとつの価値になるのではと私は考えています。もともと私はソロ活動 よりもバンド指向の人間だったので、ある一つの人間関係を持続していく果てに 見えてくるお互いの社会的距離感の変化に興味があります。としまるさんと初め て会ったのはやはり音楽活動を通じてでしたが、15年程経った今では単に普段 着の飲み友達としての機能のほうがお互い勝ってきている感も無きにしも有らず です。他の共演者とのより一期一会的な音楽的出会いと違い、却ってそのお陰で ことさら関係の特殊性を強調すること無く共演を重ねて参りましたが、それ故今 回のように純粋にデュオという形をとって作品を発表する機会は持っていません でした。とにかくもう腹の探り合いをしなくていいというのは、精神的な負担は 非常に軽減されますし、自分の仕事に集中すればするほど、拡散していく意識の 中に相手の仕事も自ずと感じ取ることができるので、やはりやり易いと言えるで しょう。ところで今回のCDは海外でのコンサートの実況録音を編集したものです が、聴いていただくことで感じ取っていただけるであろうことは、国内での演奏 との違いは特に無いということでして、それは何故かと言いますと、結局ツアー 中にライヴがあろうと無かろうと飲み歩いていたのは東京にいるとき同じだから です。ある日曜の晩などは、ホテルから出て2時間近くうろうろしてもバーが見 つからず、最終的には結局ホテルのそばの路地裏でやっと見つけたといったこと もありました。そのせいで翌日から数日間私は膝を痛め、ろくに歩くことも出来 ませんでしたが、何時の世も青い鳥は案外身近なところにいるものだとあらため て悟った次第です。別にとしまるさんが私にとって青い鳥かもしれないなどとく さい台詞を吐くつもりは毛頭ありませんが、かといって黒い羊ほどの厄介者でも ないので、あいだをとって赤い寅くらいにしておきます。おあとがよろしいようで。